青山学院大学陸上競技部の歴史

2015/11/10 更新

第2章 第1次隆盛期 日本記録樹立、日本選手権制覇、関東インカレ最高位8位
 1916(大正5)~1927(昭和2)年度

第1節 3部合同学友会による徒歩部設置

1916(大正5)年、高等学部、中学部、神学部の3部の合同で、従来の体育活動のみの体育部ではない、課外活動を統括する学友会が設置された。運動系の部活動は徒歩部を含んだ8部が承認されている。この学内的な出来事と、陸上競技界においても東京近郊の大学、専門学校が全国学生陸上競技連合(後の関東学生陸上競技連盟)を立ち上げ、現在の関東学生陸上競技対校選手権大会の第1回大会が1919年(大正8)年、本郷の東京帝国大学で開催されるなど、学生陸上競技界の組織が充実してきた為、それらの動きに合わせて、本学陸上競技部も発展を遂げていった。
1917(大正6)年、1918(大正7)年と駒場にあった東京帝国大学の分科大学である農科大学(後に東京帝大農学部に改組)のグラウンドを借りて、校内競技会を実施するなどの活動が行われた。その縁で、1920(大正9)年には関東学生陸上競技対校選手権の第2回大会が駒場・東京帝大農学部のグラウンドで行われた為、本学部員は補助員として参加している。

第2節 中学部が「全国」1位を学習院と分け合う

1919(大正8)年から2年間、中学部の部員が対外的に大きな活躍を見せた。第2回全国中等学校優勝競技大会(現在のインターハイの起源、ただしこの当時は関西でも同様の大会が行われており、実質は関東大会)で学習院と同位の1位となり、優勝は預かりとなった。(「インターハイ50年史」(全国高等学校体育連盟陸上競技専門部刊)においては1位学習院、2位青山学院となっているが、他の文献では両校が1位となっている。)なお、1921(大正10)年5月の第3回大会では、坂入虎四郎が800m、1500mで優勝、同年10月(年2回開催)の第4回大会で対校戦で4位となっている。

第3節 関東インカレ初出場で最高位8位、坂入、日本選手権制覇

1916(大正5)年の3部合同徒歩部設置以降、高等学部生の対外的な活躍は数年間なかったが、坂入や、江実、小方陸男などが中学部時代の実績を引っさげ、高等学部へ進学したのが1922(大正11)年以降で、1922(大正11)年、第4回を数えた関東学生陸上競技対校選手権(関東インカレ)に初出場し、江実が100m、200mでそれぞれ2位、3位を占め、坂入も800mで3位となった。この2名3種目の入賞により初出場ながら8位を占めた。これは2014(平成26)年度現在、関東インカレにおける最高位である。そして、第10回日本選手権では坂入が800mで優勝の快挙を果たした。本学で在学中に日本選手権を制したのは坂入と太田徹(1969(昭和34)年度)の2名のみである。そして坂入は国際大会にも出場、日本代表として、1923(大正12)年、大阪で行われた第5回極東選手権(日本、中華民国、フィリピン)の1マイル競走に出場、4位を占めた。体育協会との軋轢により私学派と官学派に分かれて議論、問題となった「十三校問題」では、関東学連(当時、全国学生競技連合)の解散を訴える者まで出て紛糾した際に、坂入は学連の存続を誠意を持って主張するなど、青山学院の「顔」として活躍した。卒業後も現役とOBとの競技会で健脚を競っている。1925(大正14)年の第6回極東選手権(フィリピン・マニラ)では、役員として日本選手団に参加。1936(昭和11)年の第11回オリンピックベルリン大会では日本選手団本部役員として参加した。1929(昭和4)年の東北学院定期戦の第1回大会にも引率を務めるなど、初期の陸上競技部を支え続けた功労者である。

第4節 大正期の名スプリンター高木正征と本学の関わり

高木正征は大正時代を代表する短距離走者で、100mの日本記録(タイ記録含む)樹立6度、日本選手権100m覇者(1921(大正10)年)である。1923(大正12)年には極東選手権(大阪)に出場、100m、200mともに2位、半マイルリレーでは3走で出場し優勝している実績を誇る。
高木は1923(大正12)年までに暁星中、暁星中出(卒業後)時代、3度、100mの日本記録を樹立。そして翌1924(大正13)年は本学の所属で競技会に出場している。6月1日、山形高との対校戦で100m、200mで優勝し、11月1日、2日に第1回目となる明治神宮大会に出場して優勝。準決勝で4度目の日本記録(タイ記録)を樹立している。しかし、この年は「十三校問題」により、関東インカレは開催されず、高木の関東インカレ出場経験はない(日本インカレは未開催)。このような多くの実績を持つ選手であるが、本学所属での競技会出場はこの1年に限られ、翌年度からは6月の対校戦の相手だった山形高へと籍を移している。このように、高木は本学には一時期の在籍であったが、本学学生唯一の日本記録樹立の大きな実績を1年間で残した。

第5節 十三校問題勃発で関東インカレ中止

関東インカレ初出場となった1922(大正13)年の第4回大会に続き、翌年の第5回大会でも熊田富男が走高跳で2位となり、総合10位となった。再開された関東インカレは1925(大正14)年・1926(大正15)年・1927(昭和2)年といずれも入賞がなく、順位なしに終わる。この年、パリ五輪選考において、官学出身者の多い体協が私学を軽視した問題に端を発する「十三校問題」によって関東インカレはこの年行われないこととなった。なお、10月10日、この年始まった明治神宮大会の出場について学連の会議が本学で行われた。私学派13校と官学派7校(本学は官学派であった)での話し合いが平行線を辿り、関東学連(当時は全国学生競技連合)の解散を訴える者まで出てきた際に、本学の坂入虎四郎は学連の存続を誠意を持って主張したという。

年表
1916年度
(大正5)
学友会(高等学部・中学部・神学部の3部合同による)設置

生徒の課外活動を掌る学友会が設置され、運動系の8部が認められ、徒歩部も承認された。


1917年度
大正6年度
駒場の農科大(東京帝国大学農科大学)のグラウンドで部内の競技会を実施。


1918年度
大正7年度
前年に引き続き、駒場で部内の競技会を実施。大正6年に中学部に入学した坂入虎四郎氏は、この競技会の実施が陸上競技部の創部の起源としている。ただし、この説は根拠が薄い。坂入氏の在籍時の記憶、印象からの説と捉えられるのではないか。

1919年度
大正8年度
第2回全国中等学校優勝競技大会(現在のインターハイの起源、ただしこの当時は関西でも同様の大会が行われており、実質は関東大会)で同位優勝。


1920年度
大正9年度
5月、第3回全国中等学校陸上競技大会で坂入が800m、1500mで優勝。
10月、第4回全国中等学校陸上競技大会で福田寿則が低障碍とやり投で優勝。
対校は第4位。


1921年度
大正10年度
第9回日本選手権で在学中の高木正征が100m優勝、200m3位、坂入は800mで3位。


1922年度
大正11年度
第4回関東インカレに本学初出場。江実が100m2位、200m3位、坂入虎四郎が800mで3位。対校8位。現在に至るまで関東インカレの最高位。
第10回日本選手権で坂入虎四郎が800mで優勝。1500mでも3位。在学中の高木正征が100m2位、江実が200m2位。
学友会が3部でそれぞれ独立した。これにより、この年からは高等学部の陸上競技部を中心に記述する。


1923年度
大正12年度
第5回関東インカレで熊田富夫が走高跳2位。対校10位。
第11回日本選手権で熊田富夫が走高跳3位、小方陸男がやり投3位。


1924年度
大正13年度
この年、パリ五輪選考において、官学出身者の多い体協が私学を軽視した問題に端を発する「十三校問題」によって関東インカレはこの年行われず。
6月1日、高木正征が本学代表として、山形高校との対抗戦に出場。この年度は青山学院の所属で競技会に出場した。
高木は先述の第1回明治神宮大会で100mで3度目の日本記録(タイ記録)を樹立。1度目、2度目は暁星中の所属だが、本学在籍、3度目は本学卒業後で本学所属で樹立しており、通算では4度日本記録を樹立している。


1925年度
大正14年度
第6回関東インカレは入賞なし。
第7回極東選手権(フィリピン・マニラ)において、坂入虎四郎が役員として派遣される。
立教大との対校戦 34.2対9にて本学勝利


1926年度
大正15・昭和元年度
第7回関東インカレは入賞なし。第8回は欠回。


1927年度
昭和2年度
第9回関東インカレは入賞なし。この結果から翌年度は2部に所属する。

5月14日 東京商科大との対校戦
5月28日 松本高との対校戦 35対16で本学勝利
10月21日 拓殖大との対校戦 31対20で本学勝利
11月23日 第2回現役対OB戦

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