2025/8/11 作成
1954(昭和29)年、本学と東京大学との間で対校戦が行われた。言わずと知れた最高学府の大学である東大とキリスト教主義の大学である本学との接点はあまりないように思われるが、明治時代末期から大正時代にかけては、東京帝国大学(東京大学の旧称および前身)の運動会には本学中学部の生徒が出場していたり、グラウンドをお借りして練習をしていたりしていた。
戦後になり、学院が大学を創設するにあたり、東大と同等の競技力を有してきたこと、そして、そもそも近隣である故に、二校による対校戦が行われたと思われる。2校による対校戦が3年間で2度行われた後、同じく近隣の大学である東京農業大学も加わり、1957(昭和32)年度からは三校による対校戦が開始された。
1957(昭和32)~1968(昭和43)年度までの12回で本学が9度の優勝を遂げているが、選手層の厚い東大も優勝を勝ち取ることがあり、この頃はお互いにとって良いライバル関係であったといえた。1969(昭和44)年度は中止の憂き目に遭う。昭和44年の東大といえば、学生運動が最も激化した時期で、入試も中止となる混乱で、三大戦も中止となるのはやむを得なかった。その後、東大チーム(陸上運動部と呼称する)の活動にも影響が大きかったと思われ、東大側の資料に頼る部分が大きいこの三大戦の記録もはっきりしない部分があるが、1977(昭和52)年度の第22回大会で東農大が初めての優勝を遂げており、その後の多くの回で東農大が優勝している。一方、1982(昭和57)年度も実施がなかった。これは、本学の部員不足が影響していると思われる。入試でのトラブルもあり、新入部員獲得にも支障があり、箱根駅伝予選会にも出場できなかったので、その余波は三大戦にも訪れていた。
その後は、本学の競走競技(特に長距離)への偏重が影響し、投擲種目の削除、続いてフィールド種目全体もあまり行われなくなり、競走種目主体の対校戦となっていった。東農大も長距離に強みを発揮する大学であったので、フィールド種目にも選手が多い東大に合わせてもらっていた部分が多かったと思われる。
筆者は最後の2年間を1、2年生として参加したが、1年次の1997(平成9)年度・第40回大会では、本学は4×100mリレーにすら出場せず、他校から苦言を呈されたことを覚えている。また、競技会後のエールの交換でも本学はまとまりがなく、声出しの担当すら決められないままもたついていたが、業を煮やした東大が速やかにエールを済ませていたことに恥ずかしさを感じたこともあった。この頃の本学は組織力が低く、組織立って動いていた東大との差を感じた。
第41回大会終了後の1998(平成10)年の秋頃、当時の3年生の主務が東大・東農大の代表者と話し合いを行い、次回、第42回大会(1999(平成11)年度)の当番校である東農大が主管をできないとの意思を伝えてきたとのことであった。それを受けて、東大も他に多くの対校戦があり、この東京三大戦の優先順位は高くないので、継続しなくても良いという意思表示があったとの事だった。本学は三大戦について、特に明確な意思はなかった(少なくとも私はチーム内の意思を聞いた事はなかったし、当時の主務の先輩がチームの意見をまとめて話し合いに臨んでいたようには思えなかった)ので、2校の意見を追認したのだろうと思われる。
当時は箱根駅伝への過熱化が進んでおり、東農大は26年継続してきた箱根駅伝の出場権を2年連続で失っていた時期で、長距離偏重の様相がその2年間でも感じることができたので、対校戦の運営にも負担感や問題があったのだろうと思われる。東大にとってはフィールド種目を行えない対校戦への意欲を持ち辛く、多くの対校戦を抱える中で、負担感を感じていたと思われるし、東農大も本学も長距離偏重で、走・跳・投の対校戦を行うには得るものが少ないと感じていたのだろうと思われる。そして、何より、当時の本学は組織力、競技力の低下が著しく、1980年代前半と並んで、1990年代後半は厳しい状況であったと思う。チームを男子長距離重視で運営するが、スポーツ推薦入試で入学する者の競技への意欲低下、活動からの離脱の問題が起きていた。また、一般入試で入学し、純粋に大学で陸上競技を継続したい者が望むような水準となっていない組織力の低さにより、部に定着しない状況、そんなチーム状態を1997(平成9)年度の大会から、あるいはもっとそれ以前から、東大側は感じ取っていたのではないかと思われる。
せっかくの先人の遺産を引き継げなかったことは残念であった。私の代は2000(平成12)年度に、東北学院定期戦と東京三大学対校戦を同時に主管する6年に一度の当たり年の学年で、当時のチーム状況で二つの対校戦を主管できるのだろうかと不安に思っていたが、その不安は東北学院定期戦のみの開催で良いこととなった。(しかし、東北学院定期戦だけでも苦労は多かった。)そのような事情から1998(平成10)年度・第41回大会をもって、対校戦は終了した。
回 | 日時 | 会場 | 1位 | 得点 | 2位 | 得点 |
1 | 1954(昭和29).5.9 | 東大駒場 | 青学大 | 37 | 東大 | 32 |
2 | 1956(昭和31).5.3 | 久我山 | 東大 | 37 | 青学大 | 32 |
回 | 日時 | 会場 | 1位 | 得点 | 2位 | 得点 | 3位 | 得点 | 備考 |
1 | 1957(昭和32).5.12 | 久我山 | 青学大 | 104.5 | 東大 | 95.5 | 東農大 | 35 | |
2 | 1958(昭和33).5.11 | 東大駒場 | 青学大 | 78 | 東大 | 76 | 東農大 | 55 | |
3 | 1959(昭和34).5.17 | 法大木月 | 東大 | 100 | 青学大 | 79 | 東農大 | 50 | |
4 | 1960(昭和35).5.28 | 東大駒場 | 東大 | 93 | 青学大 | 72.5 | 東農大 | 72.5 | 2位、3位の同点による順位付けの方法は不明 |
5 | 1961(昭和36).5.3 | 東大駒場 | 東大 | 93 | 東農大 | 69 | 青学大 | 68 | |
6 | 1962(昭和37).5.26 | 東大駒場 | 青学大 | (未詳) | (未詳) | (未詳) | (未詳) | (未詳) | |
7 | 1963(昭和38).4.24 | 東大駒場 | 青学大 | 95 | 東大 | 86 | 東農大 | 63 | |
8 | 1964(昭和39).6.7 | 東大駒場 | 青学大 | 96 | 東大 | 75.5 | 東農大 | 68.5 | |
9 | 1965(昭和40).5.23 | 東大駒場 | 青学大 | 107 | 東大 | 95 | 東農大 | 41 | |
10 | 1966(昭和41).5.5 | 東大駒場 | 青学大 | 91 | 東大 | 89 | 東農大 | 46 | |
11 | 1967(昭和42).5.3 | 東大駒場 | 青学大 | 95 | 東大 | 90 | 東農大 | 43 | |
12 | 1968(昭和43).4.21 | 東大駒場 | 青学大 | 101 | 東大 | 90 | 東農大 | 50 | |
13 | 1969(昭和44)は中止 | 学生運動激化の為 | |||||||
14 | 1970(昭和45).9.13 | 東大駒場 | 青学大 | 105 | 東農大 | 64 | 東大 | (未詳) | |
15 | 1971(昭和46).6.27 | 東大駒場 | (未詳) | (未詳) | 東大 | (未詳) | (未詳) | (未詳) | |
16 | 1972(昭和47).6.25 | 東大駒場 | (未詳) | (未詳) | (未詳) | (未詳) | (未詳) | (未詳) | |
17 | 1973(昭和48).10.7 | 東大駒場 | 青学大 | (未詳) | 東大 | (未詳) | 東農大 | (未詳) | |
18 | 1974(昭和49).9.29 | 東大駒場 | (未詳) | (未詳) | (未詳) | (未詳) | (未詳) | (未詳) | |
19 | 1975(昭和50).9.14 | 等々力 | 東大 | 81 | 東農大 | 77 | 青学大 | 72 | |
20 | 1976(昭和51).9.26 | 東大駒場 | 東大 | 89 | 東農大 | 73.5 | 青学大 | 58.5 | |
21 | 1977(昭和52).9.23 | 東大駒場 | 東農大 | 82 | 東大 | 76 | 青学大 | 72 | |
22 | 1978(昭和53).9.23 | 東大駒場 | 東農大 | 82 | 東大 | 77 | 青学大 | 70 | |
23 | 1979(昭和54).9.30 | 一橋大国立 | 東大 | 76.5 | 東農大 | 74 | 青学大 | 72.5 | |
24 | 1980(昭和55).9.28 | 東大駒場 | 東農大 | (未詳) | 青学大 | (未詳) | 東大 (2位) |
(未詳) | |
25 | 1981(昭和56).9.23 | 東大駒場 | 東農大 | 90 | 東大 | 88 | 青学大 | 31 | |
1982(昭和57)は実施せず | 本学の部員減少の為 | ||||||||
26 | 1983(昭和58).6.19 | 世田谷 | 東農大 | 124 | 東大 | 109 | 青学大 | 53 | |
27 | 1984(昭和59).6.17 | 世田谷 | 東農大 | 96 | 青学大 | 59 | 東大 | 64 | |
28 | 1985(昭和60).6.30 | 世田谷 | 東農大 | 104 | 東大 | 96 | 青学大 | 62 | |
29 | 1986(昭和61).6.22 | 江戸川 | 青学大 | 77 | 東農大 | 73 | 東大 | 68 | |
30 | 1987(昭和62).6.14 | 江戸川 | 東農大 | 85 | 東大 | 68 | 青学大 (2位) |
68 | |
31 | 1988(昭和63).7.2 | 江戸川 | 東農大 | (未詳) | 東大 | (未詳) | 青学大 | (未詳) | |
32 | 1989(平成元).6.17 | 世田谷 | 東農大 | 82 | 東大 | 77 | 青学大 | 46 | |
33 | 1990(平成2).6.30 | 大井 | 東大 | 90 | 東農大 | 90 | 青学大 | 47 | |
34 | 1991(平成3).6.30 | 駒沢 | 東農大 | 102 | 青学大 | 71 | 東大 | 60 | |
35 | 1992(平成4).6.27 | 江戸川 | 東農大 | 100 | 青学大 | 85 | 東大 | 47 | |
36 | 1993(平成5).6.26 | 駒沢 | 東農大 | 93 | 青学大 | 68 | 東大 | 62 | |
37 | 1994(平成6).7.2 | 町田 | 東農大 | 94 | 東大 | 82 | 青学大 | 57 | |
38 | 1995(平成7).6.18 | 大井 | 東農大 | 93 | 東大 | 87 | 青学大 | 37 | |
39 | 1996(平成8).6.30 | 世田谷 | 東農大 | 70 | 東大 | 61 | 青学大 | 43 | |
40 | 1997(平成9).6.29 | 世田谷 | 東大 | 74 | 東農大 | 42 | 青学大 | 38 | |
41 | 1998(平成10).6.21 | 上柚木 | 東大 | 66 | 東農大 | 60 | 青学大 | 43 |